altered-states’s blog(@zapabob)

線維筋痛症闘病生活と微笑ましい日常をアップします

手帳交付から自死失敗、そして今へ

そうこうするうちに手帳の交付を受けます。

それでもなお続く行政からの過剰な就労への期待に私の心は完全に砕けてしまいました…

そうOD(オーバードーズ)…それももっとも毒性の高い3環系抗うつ剤を主としたものです。

泣きながら衝動的にモグモグと食べて数分までの意識しか記憶にはありません。

次に目覚めたのは全身麻酔からさめた時だったと思います。辛いと言われている胃洗浄、活性炭吸着などは一切わからず心肺停止状態になっていたと姉から後に聞かされました。

明らかなせん妄状態でした。横にプロポフォールがありここで警察に拉致監禁されているとでも思ったのでしょうかねw まだ旧薬事法での規制制定直後だったのでその前まで嗜んでいた諸々への罪の意識だったのでしょうか。

見知った男性看護師に怒鳴り散らすわ暴れるわでICUは大騒ぎ…しかし事態が飲み込めてきたのかセレネースを要求して再び昏睡状態に陥ったそうです。

それから数日間は生死の境を彷徨う危険な状態が続いたそうです。

そしてはっきりと意識を取り戻した時人工呼吸器が挿管されていて苦しかったのを覚えています。しゃべれないけれど母と意思疎通がとれたのは嬉しかった。。。

それからもまだまだ心機能に異常があるので2日ほど入院は続きました。

KClの注射(mEq間違えたら心停止しますし)なんて怖いものはもう懲り懲りですw

当然某災害医療センターのICUですから生と死は紙一重のセカイ。

隣りにいる人があっという間にあちら側に旅立つ、医師の死亡診断すら惜しいと言った容態の急変などを見ていると、なんて自分は愚かな生き残るような手段で遂行したのかと言った気持ちとオマケの生きるチャンスを頂いたのだという二律背反の感情がないまぜになったことが印象深かったです。

退院の朝、総回診で救急救命科のDr.のおっしゃったことは致死量を遥かに超えていたはずなのに生きているなんてラッキーだよとも記憶に深く残ってます。

退院してから精神病棟のある病院にも行かずそのまま帰宅、翌日にはかかりつけのメンクリでたっぷり怒られたのも苦い思い出です。

翌年までのんびり過ごしたのち今の現業につくことができました。個人情報やらなんやらで明かすことはできませんが同じ障害を持つ子どもたちと触れ合う仕事です。

そこで働きながらも精神科デイケアに通所したりツイッターで爆発炎上したりしたのは次回にとっておきたいと思います。

今回も乱文雑文ですがここまで読んでいただいてありがとうございます。

よろしければなにかしらTwitterなりコメント欄に何か反応をいただければ幸いです。

それではまた…