altered-states’s blog(@zapabob)

線維筋痛症闘病生活と微笑ましい日常をアップします

診断に至るまで

前回よりだいぶ時間が開いてしまいましたorz。ここのところ発達障害関連のイベントが多くやっと落ち着いて物事に取り組める時間が出来ました。

先日は発達障害当事者会フォーラムにパネリスト団体枠で入場。

政治、行政面からの発達障害当事者へのアプローチが増えつつあるのを実感しました。

当事者会同士でのパネル・ディスカッションなどもありましたが口渇がひどく

また、まぁ当然じっとしているのは耐えられず会場内をウロウロとしていました。

様々な当事者団体や就労移行支援のPRコーナーが印象的でした。

今度Neccoさんの当事者会参加したいと思います。(よろしくお願いします)

 

さて、本題の通り診断に至るまでの道筋を書いていこうと思います。

大学を四年時に中退、半年以上実家の家業を手伝っていましたがあの震災のあった年父が突然急逝。事業が廃業になってしまいました。

様々な方々のお力添えにより現在の居住地に母ともども二人暮らしがスタートしました。

福祉のお世話になったためやっとメンタルクリニックにかかることを決意。

近くにある発達障害を見れるとwebで調べをつけたクリニックへ受診。

カウンセリングなどを受けましたが最初はうつ病とのことで治療がスタート。

しかしながら就労指導、就職活動などがプレッシャーとなりかなりの抑うつ状態は更に悪化の一途を辿っていきました。

半年ほどでやっと入社できた会社もいわゆるブラックでいきなりの出張研修、当然のような残業でしまった、失敗した・・・と感じました。

研修が終わった後は某電機企業の工場に派遣され通信機器などを組み立てていました。

最初は飲み込みが早かったことからプロパーにもなかなかの高評価を頂いていたと思います。残業夜勤を精力的にこなし夜勤シフトのリーダーにまでなることが出来ました。

新規製作製品のため改修作業が多くプロセス化されていない作業が殆どのためミスを多発。集中力のなさも他者から指摘されるのははじめてでした。

慣れと(今考えるとAD/HDから来る)ケアレスミスは増加をするばかりで段々と評価は左下がり。

ついに同じミスを立て続けに連発したところプロパーの上長から事実上の業務左遷をうけ完全に心が壊れてしまいました。

年が変わりだいぶ立ってからのことです、完全に疲れ切っていた私も年に一度の社内検定を受検しなくてはなりません。

この試験に落ちればクビという試験で私だけ落ちるという今までで一番ショックな出来事がありました。

当然次の月から会社都合で良いから辞めてくれという言葉が…「お前は細かい作業は向いていない、頭を使った仕事のほうがいいだろう」という褒めているのかなんというかそんな言葉をいただき退職に至りました。

それからも通院を続けながら求職していましたがなかなか見つからず、ついに精神保健福祉手帳を取ることに。

カウンセリングで自分の特性についてマシンガントークしたのち頂いた診断書に主:うつ病 従:広汎性発達障害 と記載されやっと自分の特性は発達障害由来であると医学的心理学的に認められた!そんな変わった印象の自己受容でした。

次回は手帳交付からの自死失敗を書こうと思います。乱文雑文失礼いたしました。

はじめまして!こんにちは、こんばんわ! altered_statesと申します。

はじめまして!こんにちは、こんばんわ!

altered_statesと申します。

当ブログでは成人発達障害当事者としての日常所感と趣味こだわり、興味関心についてつらつらと取りまとめのないゆるい感じで書いていきたいと思います。

今週の月曜日からいよいよストラテラの処方がスタートしいろんなことに前向きになれたことからブログを書こうと思い立ち上げました。

  1. 学生時代

高校生時代からPDD起因で対人関係に大分問題があって不登校気味に

その他にも遅刻、注意欠陥、興味のないことに取り組めない症状は自覚していました。不登校によって大分理系科目に穴が空いたせいで記憶があいまいな分野が生まれたり

しましたが無事卒業、センター試験で全然点が取れずに当然志望していた医学科へいけず浪人を選択し一年間の浪人生活が始まりました。

予備校の選抜試験で某S予備校の医系コースに進みましたが内容が難しく3ヶ月でやめ宅浪へ。

宅浪を選びましたが実家の家業を夏に手伝ったり自宅学習での集中がなかなか困難であったりしてあまり学習効果をえられないまま再びセンターを受験

滑り止めの滑り止めで神楽坂にある大学の化学科に進学。

大学時代には友人にも恵まれ大学での勉強も大分慣れてきたので順調かと思いきや、興味のない教養科目をサボり始めたり、実験レポートもギリギリで終わらせるような綱渡りが暫く続きました。

しかしながらそれは長くも続かず高学年になるにつれ卒業単位が危うくなることに

今考えると二次障害からくる鬱でしょうか、とうとう実験当日に実験にいけなくなり単位を落してしまいました。

バイトも勤怠の関係からクビになることも多く自信を大きくなくしていたことも一因かもしれません。

四年時になり卒業研究を取ろうと思うも単位不足で研究室に配属されずゼミの受講を余儀なくされ完全に大学へ通う熱意もなくなってしまいました。

再履修でも実験にいけずこのままだと留年確実というところで実家の経済状態の悪化で

下宿を畳み実家から東京まで普通電車でかよう日々がしばらくつづきました。

留年してでもいいからとにかく卒業しようと思い直した矢先、学費が払えないからやめて実家で働いてくれといわれ泣く泣く退学しました。